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ケニア小史植民地以前の歴史紀元前2000年頃、北アフリカから来たクシ語族が、現在ケニアの位置する東アフリカの一部に住み着きました。アラビア半島にも近いことから、紀元1世紀までにはケニアの海岸にアラブ商人たちが頻繁に訪れるようになり、そこにアラブ人とペルシャ人の植民地を作りました。ナイロック系とバントゥー系の人々も紀元後最初の千年間にこの地域に入り、内陸に定着しました。 ヨーロッパ人バントゥー語とアラビア語が融合し、発達したスワヒリ語は、様々な人々の間の交易のための共通語として発展しました。1498年にポルトガル人がやって来ると海岸地域のアラブ人の支配力が抑圧され、モンバサの港は極東に向かうポルトガル船のための重要な補給地になりました。1600年代になるとポルトガル人は、オマーンのイマムによるイスラム支配に道を譲ります。その後は19世紀に別のヨーロッパ勢力、今度は英国がやって来ました。 植民地の歴史
植民地政策への抵抗 − マウマウ1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の人々が、英国の支配からの自由を求めて戦うために秘密裏に結束しました。この誓いと共にマウマウ運動が始まり、ケニアは独立国への長く険しい道を歩み始めます。1953年、ジョモ・ケニヤッタはマウマウを指揮したとして起訴され、7年間の投獄を宣言されました。デダン・キマチは1956年にマウマウ暴動での役割によって独立運動の指導者の一人として逮捕され、その後、植民地主義者たちによって絞首刑に処せられました。そしてケニアは、1952年10月から1959年12月まで緊急事態下に置かれます。その頃には、マウマウの反乱がさらに暴動化し、何千人ものケニア人が投獄されました。この時期、アフリカ人の政治過程への参加が急速に拡大し、1954年には三つの人種(ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人)すべてがケニア議会に代表を送ることを許されました。 ケニアの独立の達成1957年、アフリカ人にとって最初となる議会への直接選挙が行なわれ、選ばれた者たちはジョモ・ケニヤッタの解放に向けて、民衆運動を扇動しました。ケニヤッタは1962年に解放され、1963年12月12日にケニアは遂に独立を果たしました。そして、ジョモ・ケニヤッタは初代首相に就任します。翌年、ケニアは共和国になり、ケニヤッタが初代大統領になりました。同年、ケニアは英連邦に加盟しました。 ケニヤッタの一党国家への道1966年、小規模ではありますが、有力な左翼野党であるケニア人民同盟(KPU)が、前副大統領でルオの長老であった、ジャラモギ・オギンガ・オディンガによって組織されました。ところが、KPUはその後すぐに禁止されてしまいます。1969年には主導者が逮捕され、ケニアは「事実上の」単一政党国家になりました。1978年8月にはケニヤッタが死去し、副大統領を務めたダニエル・アラップ・モイ副大統領がケニア二代目の大統領として後を継ぎました。 モイ時代1982年6月、ケニアは国会によって一党国家であることを正式に宣言しました。それに応じて憲法が改正されました。1983年9月には一党国家として初の国会選挙が行なわれます。さらに、1988年の選挙では一党体制を強化しました。しかし、1991年12月、国会は憲法の一党条項を無効にしました。1992年の初めには様々な新党が結成され、同年12月には多党制民主主義が復活し、複数の政党が参加して選挙が行なわれました。野党の分裂のため、モイがもう5年間の任期で再選され、彼のKANU党が立法府の過半数を維持しました。1997年11月の国会改革によって政治的権利が拡大され、政党の数が爆発的に増えました。再び野党の分裂によって、1997年12月にはモイが大統領として再選されました。KANUは国会の222議席中の113議席を獲得しましたが、離党者が出たため、複数の少数政党の支援に頼って法案通過に必要な過半数を維持しなければなりませんでした。 ムワイ・キバキ大統領2002年10月、KANUから離脱した派閥と野党連合からナショナル・レインボー・コアリション(NARC)が結成されました。NARCの候補者ムワイ・キバキは、2002年12月にケニアの第三代大統領に選ばれました。キバキ大統領は票の62%を獲得し、NARCは国会の222議席のうち130議席(議席の59%)を得ました。キバキの最初の任期中、民主主義はさらに拡大し、連合政治が根付きました。 |
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